心について学んでいる人が知り、目指そうとするものの一つに

「悟り」

があります。

悟りについて書かれた本も数多く出ていますし、悟りについて説く人もお坊さんをはじめたくさんいます。

近年ではスピ系の人も悟りについて語り始め、自らを「悟りを得た人」として紹介する人もいます。

しかし、悟りを得たかどうかは誰にも確かめる術はありません。

悟りを求める人の多くは、自称「悟りを得た人」が主催する団体に参加して、その人から「印加」を得ることを目指します。

そして、主催者から「印加」を得ると、嬉しさのあまり涙を流してしまいます。

よく考えていただきたいのですが、これが「悟り」なのでしょうか?

悟りはゴールではない

はっきり申し上げますが、私には「悟り」がどのようなものか分かりません。

ただ、私は、生涯自分自身の心と向き合う続けるという覚悟だけは持っています。

別に「悟り」という概念自体を否定するわけではありません。

しかし、私には不思議でならないことがあります。

あなたがもし、悟りというゴールを目指していたとして、誰かから悟ったと認められたとして

あなたのことを「悟った」と認めた人は、一体誰から「悟った」と認めてもらえたのでしょうか?

もっと言えば、誰かから認めてもらえたから「悟った」のでしょうか?

そもそも、悟りとは一体何を指して言っているのでしょうか?

・・・

どうやら「悟り=人として完璧」という思い込みがあるようです。

私なりに定義づけするならば、それまで気づけなかったことに気づけたのであれば、それはすべて「悟り」です。

何も特別なことである必要などありません。

些細な気づきの積み重ねが、やがて人生を大きく変えていくことに多くの人は気づいていません。

反対に言えば、些細なことでさえ気づくことのできない人が、大切な、重要な、人生を変えるようなことに気づけるわけがありません。

ですから、私は、「悟りました」と自ら公言する人を信用していません。

悟ったと思い込み「完璧だ」と思い込んだ瞬間、心の成長は止まります。自らを省みることもなくなるのですから、他人に対して配慮できなくなっていきます。

ところが、自らを「悟りを得た人」と思い込み、あるいは目の前にいる人を「悟りを得たすごい人」と勘違いしている人が、まだまだたくさんいます。

悟りはゴールではありません。

たとえ悟ったとしても、人生は続きます。

あなたも変化し続けます。

成長し続ける人にゴールはない

例えば、甲子園で優勝した高校生は、高校を卒業したら野球を辞めてしまうのでしょうか。

中には、家庭の事情や個人的な目標のために辞める人がいることでしょう。

ただ、多くの選手は大学や社会人、プロへと進み野球を続けるはずです。

それぞれのカテゴリーで自らを磨き、また優勝することを目指すはずです。

たとえ、高校生として優勝したとしても、自らの成長を願ってやまないことでしょう。

人として生きることも同じです。

精神的に成長することに、年齢は関係ありません。

必要なのは、生涯向き合うことを継続するという覚悟だけです。

特別なものは何ら必要ありません。

その覚悟を持つと決めることは、今すぐにできることです。

あなたはいつ覚悟を持ちますか?